空京

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【カナン再生記】緑を取り戻しゆく大地と蝕む者

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【カナン再生記】緑を取り戻しゆく大地と蝕む者
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●龍の逝く穴(05):敬意と尊厳

 眠るドラゴンの脇を、榊 朝斗(さかき・あさと)は忍び足ですり抜けていた。
(「いくら光学迷彩で気配を消しているからって安心はできない……死期の迫っているドラゴンはかなり敏感になっているだろうし……」)
 土色の鱗を持つ龍だった。しかしその鱗は古び、ほうぼうが剥がれ落ちそうになっていた。朽ちかけた鱗はまるで、掃除の行き届いていない風呂場のタイルのようでもあった。いくらか寝苦しげな呼吸音が大きくなるたび、これら鱗の表面は、きしきしと悲鳴に似た音を上げている。
 間近を通るとドラゴンは、カビと薬が入り交じったような匂いがした。
(「この匂い……」)朝斗は思った。(「どこかで嗅いだことがあるような……?」)病院、それも、老人の多い入院病棟に似た匂いだと、彼が気づくまでそれほど間はなかった。
 ようやく安全な地点まで辿り着き、息を吐いて朝斗は座り込んだ。
「カナンのイコン……一体どこにあるんだろう?」
 先ほどのように、龍の眼を盗み進むという際どい場面には何度か遭遇したものの、一向にイコンの手がかりはなかった。「にゃー」と小さな声でちび あさにゃん(ちび・あさにゃん)が鳴いた。「諦めず頑張ろう」と言っているかのように聞こえた。

 朝斗らが去って、十数分してからのことであった。
 土色の龍が昏々と眠るその鼻面に、静かに立つ姿があった。
「選べ、獣として朽ちるか、戦士として死ぬか」彼女は呼びかけた。牛皮消 アルコリア(いけま・あるこりあ)だった。彼女は、アコナイト・アノニマス(あこないと・あのにます)に憑依された姿だ。歌うように呼びかける。
「死に逝く者に花束を。
 死に逝く龍に歌声を。
 泣き声よ鳴き……」
「すまないが詩吟は、他所でやってくれないか」龍が口を開いた。「諸君らの詩を聞く気はない。横を通りたいのなら、さっきの礼儀正しい若者のように黙って通ってほしい。私が、やがて訪れるものを待つ時間を邪魔しないのなら、こちらも君らの邪魔はするまいよ」
 むっとしたような表情を浮かべながらも、アルコリアはこれを無視した。「私は毒花。致命の毒。手向け……」
「だから、通りたいのなら黙って通ってくれればいい」龍は重くなった瞼を半分ほど開け、そして閉じた。「イコンとやらについては私は知らんよ」
「違います!」アルコリアはいきり立った。「私はドラゴン退治にきました!」
「退治されるようなことを私がしたかね……」老龍は溜息をついた。「私はもうじき命果てる老龍、退治せぬとも勝手に逝く」
 しかし、それではアルコリアは収まりが付かない。龍殺しの槍を構えた。
「笑いながら殺し、笑いながら殺されましょうよ」
「勝手に笑うがいい。殺されるのは御免だが四肢が動かぬわ……君のやっていることはただの虐殺だな……やれ、五千年近く生きて、このような最期を迎えることになるとは……」
 老龍は呆れたように言って欠伸を洩らした。アルコリアが本気だろうが、ただ強さを誇示したいだけだろうがどちらでもいい、といった様子だ。
(「死を覚悟したのなら、死に物狂いで戦ってくるはず……今のは虚勢に過ぎない……!」)アルコリアはそう判断して、槍を手に龍に飛びかかった。
 しかしその槍先は弾かれ、彼女は壁面に背をぶつけた。
「あなたは女性ですが、敵とあれば容赦も躊躇いもしません。むしろ、契約者相手に手加減は洒落になりませんから」槍を弾いたのは剣だった。ウルクの剣、長い時間をかけて鍛え抜かれた広刃の巨大刀、叩きつける威力もさることながら、その刃は鮮やかな切れ味と抜群の強度を持つという。「抵抗の意志がないものに武器を向け、自己満足のためだけに命を奪おうとする……あなたのやっていることは、生命への敬意を欠いた下衆そのものと知りなさい」
 それほどの大剣を、軽く片手で構えすっくと立つは、エメ・シェンノート(えめ・しぇんのーと)の姿であった。
「いえ、そういうつもりではなく……」私は龍との殺し合いを楽しむために、とアルコリアは応じるも、
「非はそればかりではありません」と告げるは片倉 蒼(かたくら・そう)だ。「無闇にカナンのドラゴンを攻撃し、ドラゴンたちに我々への敵愾心を抱かせるという行為は、ネルガルに利するばかりです。最悪、ドラゴンとシャンバラ勢の戦いになりかねない……これは間接的に神官軍に手を貸しているに等しいでしょう」蒼は武器を持たず丸腰に見えるが、そこには眼に映らぬほど細い暗器『ナラカの蜘蛛糸』が絡みついていた。
「殺しを楽しむ時点で賛同はできませんね。どうしても、というのであれば」エメは普段の、おっとりした姿とは一変していた。眼に怒りを灯し告げたのである。「私たちが相手になる!」
 この二人を相手にし、なおかつ龍が戦いに加われば、さしものアルコリアとて勝てる自信はなかった。ふんと鼻を鳴らすとその場を逃れたのだった。殺すなら、別の龍にしよう。
「感謝したい……貴公子、名を聞かせて欲しい」龍は眼を開き、エメに頭を垂れた。
「顔をお上げ下さい」エメは一礼した。「当然のことをしたまでです。信じて下さい。基本的にシャンバラの人間は、貴方たちを尊敬しております」
「あと二千年、いや、千年でも若かったらなあ」龍は、すっかり少なくなった歯を見せて笑った。「そうであれば私は貴殿の同志となり、貴殿らを乗せて空を舞ったであろうに!」