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リアクション
31.嘘と口実と、あなたへの
……待ってばかりだな、と箱岩 清治(はこいわ・せいじ)はぼんやりと思った。
前髪をぱっつんと切った薄茶色の頭には黒い乗馬用ヘルメット。白のポロシャツにベストと乗馬ブーツ。それから手袋。若干カジュアルな乗馬服だ。
場所は、薔薇の学舎の乗馬場。
周囲では乗馬部の部員がそれぞれ休憩したり、馬の世話をしたりしている。
清治は別に、乗馬部の部員ではない。薔薇の学舎の生徒は何でもそつなくこなすイメージがあるかもしれないが、清治は乗馬は苦手としている。それに、人と接することも。
今日ここを指定したのは、“あの人”だった。清治が待っている人。
待つのは、ドキドキする。その間に自分の顔が真っ赤になってたりしたら恥ずかしいし、挙動不審に見えるかもしれない。
来ないんじゃないかなって不安になるときもある。でも、すっぽかすような人じゃないって信じてる。
そう、時間を作ってくれて、待ち合わせに来てくれるだけでありがたいのだ。だって“あの人”は多忙な校長先生だから。
……だけど、ごくたまに、ふと思う瞬間がある。待ち合わせるだけじゃなくて、迎えに行けたら。迎えに来てもらえたら。
彼は校長と一生徒としての分は弁えているつもりだったが、こんな気持ちを抱くようになった自分に戸惑いもあった。
それでも声を聴けば疑問なんて忘れてしまうのだ。
「待たせたね」
ルドルフ・メンデルスゾーン(るどるふ・めんでるすぞーん)の姿に、一瞬清治は見とれそうになった。
彼と同じ乗馬服の姿だった。黒と赤を基調としたジャケットにシャツ、ブーツの姿は華やかでありつつも凛々しい。ヘルメットに、これは普段外すことのない仮面を付けていた。
「……いいえ、今来たばかりです。あの、……来てくれてありがとうございます」
「約束だからね」
約束、の言葉に清治の胸がとくんと鳴った。
もし自分が薔薇の学舎に飛び込まなかったら。
昨年、喫茶室で行われたクリスマスパーティーに参加してなかったら。
そこで「乗馬のコツを教えて欲しい」と、言えなかったら……、もし覚えてくれていなかったら、今日の機会はなかった。
自分の変化が自分に良いことをもたらすなんて、不思議な感じだった。
「さ、行こうか。二人の馬を選ぼう」
馬屋に行こうとするルドルフを、清治は負いながら、
「あの、校長の愛馬は……?」
「乗馬が苦手なら、なおさら相性の良い馬の選び方から学んだ方がいいと思うよ。乗馬する、というより気に入った馬と遊ぶくらいの気楽な気持ちでね」
「で、でも今日せっかく校長が教えてくれるのに……」
「だからだよ。また乗馬部に来たいと思った時に、君に友達がいた方が僕も安心だからね」
ルドルフは優しく微笑んだ。
また、清治の胸がとくん、と鳴る。それがただの気遣いからだということは頭では分かっているのに……。
ルドルフは乗馬部の部員に声をかけると、自身の乗る白毛の馬を選び、清治にも馬を選んでくれた。
「この子は人懐っこいね、こっちの子は……」
機嫌の見方を教えてくれる。清治はだが、一人で大人しく鼻を鳴らしている馬に目を留める。近づくと、耳を立てて興味深そうに目を細め、顔を寄せてきた。硝子玉みたいに澄んだ目が綺麗だった。
「僕、この子にします」
「そう、お互い気に入った馬が一番だからね」
ルドルフは嬉しそうに笑うと、清治と二頭の馬とともに外に出る。
もう知っているだろうけど、と馬の発進の仕方や姿勢を軽くおさらいしてから、二人は馬を走らせた。
ルドルフの後を追いながら、清治はその姿に思わず見とれてしまう。何をやっても、本当に校長は素敵な人だった。
ひとしきり走って疲労を感じた頃、ルドルフは清治を乗馬場が見えるテーブルに誘った。
屋外用のパラソル付きのテーブルは程よく初夏の日差しを遮ってくれた。
ガーデンチェアに腰かけると、ルドルフはさっきのどこが良かったとか、あの乗馬部の部員の姿勢が……とか、熱心に、押しつけがましくなく、清治に解説してくれる。
しばらくそれを真面目に聞いていた清治だったが、同時にもどかしさも感じないではなかった。
休憩時間がこれで終わってしまえば、馬に乗って、それでさよならだ。
馬に乗ってたら、自分の小さな声では届かないだろう。颯爽と馬を走らせる背中に、声をかけられないだろう。
「……少し、僕の話をしてもいいですか」
乗馬を教えてもらいたいのは、嘘じゃない。だけど、それは、ルドルフだから教えてもらいたかった。そんな内心に、彼への思慕に彼自身気付いていた。
だから、ルドルフにとっては嘘つきかもしれない。ただの口実で、それから……。
清治は俯くと、きゅっとこぶしを握った。
「僕は、日本の片田舎にある商家の出身です。その地方ではそれなりに名の知れた家で、僕はそこの長男として生まれました」
彼が語るのは、パラミタに来る前の過去、昔の自分。
「でも母の本当の子供ではなかった……父と母は長く子供に恵まれなかったから。外に作った父と愛人の子供である僕が家を継ぐことを余儀なくされました。
僕はこんな肌の色だし、地方の田舎の町だから噂はすぐに広まって、小学校では同級生に蔑まれ続けたし、もちろん母からも祖父母からも良い顔はされなかった。
一昨年、やっと父と母に本当の子供が生まれて、その子が跡取りとして決まったから、僕は両親に追いやられるようにこの学舎にやってきました」
薔薇の学舎に入学したのは決してポジティブな理由ではない。
校長や理事長が選んでくれた、それは嬉しかったけれど、それだけで裏切りのような、悪いことをした気分になる。
そう……こんな自分がそう思うくらい、校長は素敵な人だった。
「僕はあの家が嫌いだし、この容姿も嫌いでした。何処に行っても何をやっても変われるわけがないと思っていた。
でもこの学舎は違った。あなたは、……僕の肌の色を嫌いなわけがないと言ってくれた。それがすごく嬉しかったんです」
だから、伝えておきたかった。
本当に嬉しかったこと。感謝していることを、言葉で。
それから――、
「いつも僕の誘いを無下にしないで、話を聞いてくれてありがとうございます。
……またこうして、お誘いしてもいいですか」
本当に、慕っていることを。好きだという気持ちを。
一気に言い終えた清治は、返答を待った。その耳に、柔らかい声が届く。
「もちろん、君がそうしたいなら遠慮することはない」
「で、でもご迷惑じゃ……」
思わず顔を上げた清治の目に、いつもと変わらない優しい微笑みが映った。
「迷惑じゃない。ただ仕事が忙しいときは難しいかもしれないけれど、その時には理由を言うよ」
言葉にしなかった清治と同様に、ルドルフも直接答えはしなかったけれど。ちゃんと、清治の気持ちを分かってくれたようだ。
「今日も、いい息抜きになっているよ。さあ、もう一走りしようか」