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【4周年SP】初夏の一日

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【4周年SP】初夏の一日

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36.卵焼きを二人で


「いらっしゃいー」
 そこには、他に人の姿はなく。
「ふ、二人……ですか」
 ロザリンド・セリナ(ろざりんど・せりな)は狼狽えて、手元の布包みを取り落しそうになった。
「うん」
 エプロンをかけた桜井 静香(さくらい・しずか)のにこやかな笑顔だけが、ヴァイシャリー家のキッチンに、白百合のように咲いていた。
 しかし……彼は、そう、男性だ。可愛らしい顔立ちとドレスのような服装のために、何処から見ても女の子にしか見えないのだけれど。流石に何年かすれば男性らしい体つきと声になるのかな、と思ったのだが、十代だった時から殆ど変わっていない。
 それはロザリンドも同じだ。パートナーのような豊満な胸には……いやいや。
 ともかく、二人とも精神的には成長しているとは思うがそれだけで――勿論成長してないと困るのだけど――彼は二十歳で、彼女は二十二歳。もうちょっと色っぽい関係になってもおかしくはないのだが、とにかくロザリンドは挙動不審に狼狽えてしまうような間柄な訳である。
(うう、何で……二人きりなんですか……)
 ロザリンドは心の中でもう一度呟くと、手荷物を静香が示したテーブルにことん、と置いた。
 ヴァイシャリー家の、幾つかあるキッチンの一つ。早朝のせいか静まり返っていて、換気にと静香が開けたのだろう、窓からは小鳥の鳴き交わす声と風に揺れる葉のざわざわという音がよく聞こえた。……良かった、と思う。窓まで閉まっていたらもっと慌ててしまう。
 静香はそんな内心を知ってか知らずか、のんびりと卵や野菜を作業台に置きながら話を続けた。
「あれから色々あったよね。事件のある時はお休みしちゃってたし、みんなもここに来てお弁当を作る余裕がなかったんだと思う。……最近やっと落ち着いてきたから、みんな戻ってきてくれるといいね」
 そう、今日はヴァイシャリー家で毎早朝に行われている「お料理教室」の日なのだ。とはいえ、そもそも静香のお弁当代を浮かしてお小遣いを増やそう、なんて理由で始まったのだから元々参加者は少ない。
 静香の言う通り、あれからほとんど開催できていなかった。静香が一人お弁当を作っているだけの日もままあり、静香とてシャンバラやパラミタが重大な危機に何度か見舞われれば校長職を優先する。
 ……そう。校長先生とヴァイシャリー家のお料理教室で二人きり、というシチュエーションがロザリンドにはちょっとした抵抗がある。
 嫌じゃない――むしろ二人きりの時間がなかなか取れなくて嬉しいからこそ、恋人の住んでいる家で公私混同だと思われないように、遠慮がある。彼は公人で、彼女にもロイヤルガードや生徒会執行部の白百合団の副団長という立場があるからこそ、そのあたりはきっちりしておくべきで……。
 でも。
「今日のお弁当は何にする? 大体の道具と材料は揃ってるけど……あれ、その計量スプーンとタイマーは……?」
「はい。別のスプーンだと目盛を間違えてしまうかもしれないので、自分で持ってきました。このタイマーも使い慣れているものが良いかと……」
 ロザリンドが解いた布包みの上には、計量スプーンやカップ、キッチンタイマーなどが並んでいた。それに、初心者向けの料理本。
 彼女はエプロンをきゅっと締めて手を洗ってから、ちょっぴり緊張した顔つきで……というのは、料理が苦手だったから。
「今日は洋風のお弁当にしようかと。よろしくお願いします」
「うん、よろしくね」
 ――静香の素直な笑顔を見ると、つい、嬉しくなってしまうのだ。


「……大丈夫、ロザリンドさん?」
「だ、大丈夫です……」
 さっきの嬉しさはどこへやら、十分後、既にロザリンドは困難に直面していた。
 ピピピピ、ピピピピ。キッチンタイマーが鳴って、慌ててお鍋をかけたコンロの火を止めれば、じゅうじゅう、とフライパンから焦げ臭いにおいが漂っている。
「……こ、焦がしちゃいました……こっちはなんだか生煮え……がっくり」
 隣は……と見れば、静香は既に何品も完成して、お弁当箱に入れる前に油を切ったり、冷ましたり、冷やしたりしていた。
 裕福な家の出身とはいえ、借金生活を送っていた静香は、身の回りのことは一通りできる。料理もコンテスト出場とまではいかないが、主婦のようにささっと手際よく、味はもちろん彩りにも気を遣ったソツがないお弁当が完成しつつあった。
「もう一度やってみよう、ロザリンドさん……って、火傷してない!?」
 熱したフライパンにうっかり触れて赤くなってしまったロザリンドの指先。静香は慌ててシンクの蛇口を捻ると、掴んで流水に当てた。
「大丈夫? ちょっと赤くなってる。すぐ冷やせばたいしたことないと思うけど……」
「はい……済みません」
 余計落ち込むロザリンドに静香が優しく話しかける。
「さっきのは多分ね、切り方にコツがあるんだよ。後ね野菜は薄いから火が通りやすいわけじゃなくて……あ、その前にお野菜の特徴を知った方がいいかも」
「特徴、ですか?」
 顔を上げるロザリンドはめげていた。静香はなるべく丁寧に、
「うん。えーと、人の体だって心臓とか足とかあるでしょ? ジャガイモはここが芽で、根っこはこの辺から……」
 並んだ野菜を一つ一つ取って静香が説明するのをロザリンドは頷きながら聞いていたが、
「切るなら戦場で慣れ……いえ、できると思います! こうですね、――えいっ」
 人参を放り投げると、包丁を目にも止まらぬ速さで突いて、……包丁に見事に刺さった人参に驚き、口に手を当てる。
「……はっ、つい急所を一突きしてしまいました」
「そう、そんな感じ……じゃなくって、もうロザリンドさんったら」
 静香は笑うと、また肩を落としたロザリンドを慰めるようにぽんぽんと叩いた。
「……何でこんなにお料理が苦手で遅いんでしょう。良く分からないんです。目分量とか、さじ加減とか。きつね色ってどんな色なんでしょう? 薄くても濃くてもいいのかなとか……」
 確かに、ロザリンドの料理はきっちりしていた。
 砂糖や塩をいちいち計量スプーンですり切りにして計っていたし、ゆでたり焼いたりする時間も、一回一回タイマーで、その通りに火を止めている。
(うう、だから時間に無駄が多いし、本通りにいかなかったり、ちょっとハプニングが起こるとパニックを起こしてしまうんですよね……)
 料理が下手な自覚はあって、それを何とかしようとしているのに、上手くいかない。
 逆に静香は計量スプーンを使うのは最小限で、目分量で調理していた。
「確かにお料理の言葉って独特だよね。実はフライパンだって種類で温まり方が違うし……あ、そうだ!」
 それは、初心者向けの料理本だった。ロザリンドの持っているものとは違う。真新しかったが、開いたそれにはあちこちに付箋や手書きの書き込みがされていた。
「この本、僕のお勧めなんだ。たとえば“一つまみ”はどれくらい、って写真とグラムで表示してあるんだよ」
「? 校長には必要ないのでは……?」
「これは、ロザリンドさんにあげようと思って。分かりにくい所には書き込んでおいたから、役に立つといいんだけど。今日はこれを見て、一緒にやってみよう」
 ロザリンドは頷くと、静香のアドバイスを受けながら料理に取り掛かった。
 ロザリンドは不器用ながらも手元を見ながら少しずつ、少しずつ、包丁で野菜の皮を剥いていく。
「や、やっぱり静香さんも料理の得意な人の方が好きですよね? 私もいつかはきちんと料理の腕を鍛えて、美味しいって言ってもらえるような料理を作りたいと……」
「え? ううん、得意不得意は人それぞれだもんね。料理できなくたってロザリンドさんはロザリンドさんだもん。そんなこと気にしないよ。
 それに僕ができることってこれくらいだから……ね。ああ、これだと専業主婦が仕事を取られたみたいな言い方かなぁ?」
 静香は出来上がったお弁当を、二人分、詰めていた。
「いつも校長のお仕事を頑張ってるって思いますよ。……やっぱり学校のお仕事から帰りましたら『お帰りなさいませ。食事にしますか? お風呂にしますか? それとも私?』とか言ってもらえる感じがいいのでしょうか?」
 ――ぽとり。静香の菜箸から、持ち上げかけたタコさんウィンナーがお皿の上に落ちた。
「静香さん、それ……落ちてますよ」
「え? ええっ? ……ありがとう」
 静香はわたわたしながらウィンナーをお弁当箱に詰めなおす。
 ロザリンドは、そんな様子を微笑みながら見ている……少し、余裕が出てきたようだ。
「最近困ったり、手伝えるようなことありますでしょうか?」
「えーと、困るのは、さっきみたいな質問っ」
 照れたように、静香はわざと頬を膨らませて言った。
「じゃあ、別の話を……もうすぐ夏ですから、海水浴に行ってみたいですね」
「わざと困らせようとしてるの?」
「それは静香さんがそういう風に想像してるからですよ」
「……意地悪」
 ぷい、と静香は横を向いた。とはいえ、彼女が怪我をしないようにすぐに顔を向けたのが分かって、それがロザリンドには嬉しかったのだけれど。
「……それで、油を引いたあとはどうすればいいでしょう?」
 ロザリンドは室温に戻した卵をボウルと菜でかき混ぜながら、長方形のフライパンと見比べる。
 日本のお弁当につきものの卵焼き。昔、同じようにお弁当を静香に食べてもらおうと錦糸卵の集中特訓をしたことはあるのだが、卵焼きはこれよりも難易度が高いと聞く。
「それはね、こうやって卵を流し込んで、それから……」
 菜箸を持つロザリンドの手に、静香の手が重なる。
「……あのね……」
 ふつふつと固まっていく卵を二人で見ながら、静香の声がゆっくりと耳に届く。
「日本ではね、だし巻き卵とか、しょっぱいのとか甘いのとか、色々家庭の味があるんだ。
 多分ロザリンドさんの実家にも、そういう家庭の味や料理ってあると思うんだけど……、僕はそれを知りたいし、二人で味を見つけていけたらいいなぁって思うよ」
 ――プロポーズなんかじゃないのに。
 ロザリンドは空いている手で、自分の耳を軽く抑えた。なんだか、熱くなってしまったような気がして。
 それから、真っ赤になった。次に耳に届いた囁くような言葉が言葉が思いがけなかったから。
「……好きだよ」
「きょ、今日は、あの、単にですね、ほっこりするつもりだったんですよー」
「さっきのお返し! ほらほら、ぼーっとしてると焦げちゃうよー」
 静香はくすくす笑うと、ロザリンドとともに、卵をくるくると巻いていった……。