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リアクション
37.お嬢様の辞書に、レースのカバー
……天井に水音が響いていた。
「これで準備体操は終わりですわ。さあ、ここに掴まって……」
「そ、そんな……」
「大丈夫、怖くありませんわ」
冬山 小夜子(ふゆやま・さよこ)は怖じる恋人に手を伸ばす。
「まずはそう、腰を下ろして、手をかけて……」
小夜子は泉 美緒(いずみ・みお)の手を取って、隣に導いた。
プールの縁におずおずと腰かけた美緒は両足を水に浸すと、両手を逆手にして、縁を掴む。
「今日は水に慣れるところから、ゆっくりと進めましょうね。始めは、水を蹴る練習ですわ。こうして足を伸ばして……」
小夜子の両足が交互に動き、ばしゃばしゃと水をかいた。
散る飛沫が小夜子の白い太ももを、やがて彼女のかたちの良い大きな胸を包む三角ビキニの、僅かばかりの布地を濡らしていった。
「は、はい。こうですわね」
美緒は頷くと、小夜子の真似を懸命に始める。
(美緒の水着姿、清楚で可愛らしいですわね……)
彼女の水着もビキニだった。真面目に練習するのだからスポーツ用のものを、と急遽買いに行ったらしいのだが、その店には彼女の入るサイズがなかったらしい。もちろん太っているわけではなくて、原因はそのまるでたわわに実った果実のようなサイズの胸にあったのだが。
水を蹴るたびに揺れる胸に、小夜子は思わず悪戯したくなったのだけれど――それは後でゆっくりできる。
さほど広くはない、けれどヴァイシャリーらしい上品な装飾が施された、清潔な室内プール。水音が響くのは、他に人はいないせいだった。
市内のプールをわざわざ貸切にしたのは、美緒が練習中の姿を見られるのは好まないだろうから、という気遣いからだった。
「体も温まったところで、水に入りましょう」
するりと水の中に体を滑らせて、小夜子は美緒を水の中に誘う。
美緒はおずおずと、プールの縁に掴まった。
「水に顔をつける練習をしましょう。目を瞑って、水の中に潜って10まで数えて……」
昨夜のことだ。
小夜子は自室のベッドの上で自分にオイルマッサージを施しながら、考えていた。
(美緒の今年の目標は自立でしたね………)
昨年末に百合園女学院で開催された合同忘年会で、小夜子が直接美緒に聞いたことだ。
(美緒の苦手なものを克服する手助けが出来れば、自立の手助けになるのではないかしら? 美緒の苦手な物は……料理と水泳でしたわね)
どちらにするか迷うまでもなかった。料理ならいつでもできるが、泳ぎに適しているのは、やはり夏。
今は初夏。これから温かくなっていく。今から泳ぎの練習をすれば、うまくいけば本格的な夏が訪れるころには、一通り泳げる……まではいかなくとも、苦手意識を克服できるかもしれない。
そうしたら一緒にプールに出かけられるかもしれないですわね、と小夜子はちらりと思った。
――ともあれ、小夜子は純粋に彼女を手伝ってあげるつもりになっていた。
可能性として、だが。自身の内に燻るように存在する、それも特に美緒に対する欲求。去年のクリスマス、躰と想いを重ねることはできたけれど――そしてこれからも懐き続けるのだろうけれど――同時に美緒の純粋さが小夜子の中にある種の後ろめたさや背徳感も呼び起こしたのかもしれない。
美緒のことを大事にしたいと思うからこそ無意識に、こういったかたちで、欲求以外の愛情を伝えたいと思ったのかもしれない。
美緒が水に慣れた頃、小夜子は彼女を泳がせていた。
「美緒、体の力を抜いて、足を浮かせて……さっきの脚の動きを思い出して……」
プールの縁、小夜子の手。そしてビート板にと掴む場所を変え、美緒の練習は続いた。
青いビート板を両手で掴み、顔を水につけ、息継ぎをして。足を動かす。そんな懸命な美緒の腰を手で支えていた。
「……ぷはぁ……小夜子、わたくし、できていましたかしら?」
疲れたように息を吐いて、水底に足を付けた美緒は、不安げに小夜子に問いかけた。
「ええ、できていましたよ。この調子でしたら私の腕が無くても浮いていられるかもしれませんわね」
「……浮いて、ですか……」
しょぼん、と美緒は肩を落とす。さっきからその場での練習で、美緒はまだ自分の脚で水中を進むことができていなかった。
「今は泳げなくてもその内出来ますよ。一昼夜で出来る事でもありませんから」
小夜子はそんな美緒の肩をぎゅっと抱きしめると、甘く唇に口付けた。
「美緒、お疲れ様」
「……ありがとうございますわ。わたくし……また頑張りますわ」
「今日は疲れたでしょう。シャワーを浴びたら、全身をゆっくりマッサージしてあげますわ」
小夜子は美緒の頭を優しくなでると、シャワー室に二人で入った。
シャワー室から出ると小夜子は、横になった美緒の体をいたわるようにマッサージする。白くて滑らかな肌に指を滑らせ、疲労を取るために血液とリンパを流していく。
「小夜子は、わたくしが自立したいとお話ししたの、覚えてくださっていたのですね……」
「ええ。美緒の言う自立がどんなものか分からなかったから、苦手なことをお手伝いできたらと思ったの」
「ありがとうございますわ」
マッサージの気持ちよさと、小夜子の親切に、美緒の目がうっとりと細められる。
「わたくし、一人で夜のコンビニに行ってみたり、お掃除をしたり、洗濯機の使い方を覚えたりしたいのですわ……」
……小夜子は。正直びっくりしてしまって目を丸くした。
筋金入りのお嬢様だとは思っていたけれど、彼女の「自立」がそんな意味だったなんて。
(確かに、美緒は百合園女学院に入学してからやっと、一人で買い物と着替えができるようなったくらいでしたわね。でも、それが美緒なりの自立なのですわね……)
それからふっと微笑んで。
「……あっ、小夜子、そこは……」
「ここもマッサージしましょう。疲れはすぐにとっておかないと」
「くすぐったいですわ」
身をよじる美緒に構わず、その指を彼女で全身を愛おしげになぞるのだった。