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リアクション
35.夢のありか
……空京は雲海に浮かんでいる。
至極当たり前のことだが、空京に来たばかりの一部の人間にとって、陽の光を遮って乱立する高層ビルは硝子と金属の断崖で、目覚めるアパートは薄暗い谷間にあるようにも思えただろう。
夜には星をかき集めて落としてきたような――だが人工的な照明輝く場所もあり、それは地球と殆ど変わらない風景だった。
だがまだ皆が目覚める少し前。
高い山の頂付近から見下ろした空京は、きらきらと朝日に輝く硝子細工の山のひとつで、なだらかな平地がほとんどの島を見渡せば、広い雲海に取り囲まれているのだった。
一本の樹の枝に腰かけ、何をするでもなく、登っていく太陽と輝きを増す空京を眺めながら、リネン・エルフト(りねん・えるふと)はぶるっと体を震わせた。
朝、高地に吹く風は冷たい。
上衣を着てはいるものの、体を覆うのは僅かばかりの布と冷たい金属で、リネンの体温を肌から奪っていく。
だが、胸の奥の熱さまでは奪えない。彼女の頬は赤みが差してさえいた。
ふと見下ろせば、すぐ樹の根元で彼女の愛馬・ペガサスのネーベルグランツが草をはんでいた。
リネンはここまで、雲海を飛んで来たのだ。待ち合わせのために。
待つのは、それほど苦にならない。いや、来ると分かっている相手を待つのは、楽しいとさえ言って良かった――相手が愛しい人であるならば。
やがて朝日が昇り切った頃、雲海の中から姿を現したのは、白いペガサスに跨って、黒い髪を風になびかせて空を翔るフリューネ・ロスヴァイセ(ふりゅーね・ろすう゛ぁいせ)だった。
「待った? さっきまで用事があったの」
「大丈夫よ。どうせフリューネのことだから、人助けでもしてきたんでしょう?」
フリューネは軽く頷くと、ペガサスのエネフの背から樹上に飛び移った。
これから二人は、エリュシオンにあるハーフフェアリーの村に行く予定だった。シャンバラ人の個人では入れないため、ツアーとして。
団体行動の最中は二人っきりにはなれないが、誘ったのはリネンだ。彼女の個人的な理由で……花畑で、心の中に重く溜まってゆく感情を伝えたいと思ったのだ。
だがフリューネは彼女の内心の悩みなど知らずに話しかけてきて、リネンは頷いているうち、行こうと言うタイミングを逸してしまっていた。
……雑談をした。
昨日何があったとか、気になったこととか。最近あった強盗事件の話とか。
普段通りの何気ない雑談で、ただそれは友人、相棒としての範囲を出ない。相槌をなんとなく打っていたが、心は既に会話の上ではなく、自分の方を向いていた。
浮かないリネンの表情に気付き、フリューネは心配そうに尋ねた。
「どうしたの?」
「ちょっとね……最近、考えることが増えて、ね」
一度言葉を切って逡巡した後、リネンは顔を上げて問いかけた。
「フリューネは夢……未来のことって考えたりとか、することある?」
――最近、空賊団の勢力も大きくなった。世界の危機もひとまず去った。それに伴って、周囲が変わりつつある。未来に向かっている。
なんとなく、自分の将来も考えるようになったのだ。
フリューネはどう思っているのだろう。
人助けに冒険して、遊んで。それは楽しいことだけど、いつまで続くかわからない。
「たとえば、ロスヴァイセ家の復興したいってたまに行ってるけど、家柄自体は残ってるでしょ? 復興のために何かするのかなとか」
「ああ、家の復興ね? あれはユーフォリアさまの復活に合わせて達成されたのよ。
今は自由に空を飛び続けたい、っていうのが目標ね。そのために、空を騒がす者がいたら対応しているの」
リネンは真っ直ぐに、迷いなく答えるフリューネをまぶしく思った。
「そういうリネンはどうなの?」
リネンは少し疲れたように力なく笑みを浮かべた。
「私の夢はフリューネみたいになって、自分みたいな子を助けたい、……って、前にも話したっけ?」
フリューネは綺麗だ。正義のために生きることができる。だけど……自覚してる。自分は現実主義。
夢は、フリューネのようになること。自分のような法に捨てられた人を助け導くこと。そのはずだった。だが、義賊として名を挙げてたところで、自分の本質はそう簡単に変わらない。
嫌なことだって汚いことだって、やれる自信がある……やってしまう。例えば、ひとたび戦いを始めればそれが殺戮になってしまう、というような。
それも、もし『フリューネのために』……そう思ってしまったら、自分で自分を止められなくなるのではないかという危惧。
愛を知らずに育ってきたリネンには、フリューネのくれた感情は大きすぎ。同時に、自分がこの想いのためにどうなってしまうのか、恐れを抱いてもいた。
そしてそれ以上に……抑えられなかった。
だから、リネンは言った。
「私はいつだってフリューネの味方よ。あなたの夢を全力で助けたい。けど、私がその手段を間違った時は……」
小さな小さな声で、囁くように。
「フリューネに殺して欲しい……」
伏し目がちなリネンは、だが次の瞬間、目を見開いていた。
頬が熱い。遅れて、パン、という音が耳に飛び込んできた。
肩が揺れる。
肩が掴まれている。
見据えている。フリューネが。
真剣な黒い瞳が真っ直ぐにリネンの瞳を貫いている。
「私に友達を殺せっていうの? 手段を間違ったのなら共に正せばいいじゃない」
彼女はリネンが空賊・義賊になったきっかけであり、恩人だ。心の支えだ。リネンの最愛の人――最愛の人になら殺されてもいい、そう思うくらいに。
リネンもまた、フリューネの心の支えになった。
逆に言えば。そんなフリューネにとっては、心の支えを殺してしまえ、と言われたことになる。
フリューネは表だって傷ついた様子は見せなかったが、瞳には悲しみと怒りが混じり合っていた。
「……悩みがあるんだったら、私にも相談して。力になりたいから……」
リネンの呆然とした表情に気付いたからだろうか。
それだけ言うと、彼女は次の瞬間にはさっぱりした笑顔を浮かべて、軽やかに立ち上がった。
「さあ、行きましょう。エリュシオンは遠いわよ」
「……うん」
二人を乗せた二頭のペガサスは翼をはためかせる。
ツアーの船に乗るために、並んで東の空、パラミタ内海へと駆けていった。
〜愛の花を観ながら〜