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リアクション
34.再会を待ちわびて
その日は、騎沙良 詩穂(きさら・しほ)にとって特別な日ではなかった。
小さい頃に習ったコックさんの絵描き歌に出てくるくらいしか接点はなかったし、かといって歌詞の通りに大雨が降ってくるわけでもない。
紫陽花が咲き始めてカタツムリを葉っぱの上に見つけるのは人並みに嬉しかったが、しとしと続く長雨はメイドと家事の大敵で、乾かない洗濯物は頭痛の種。部屋干し用の洗剤と乾燥機のフル稼働で、清潔なテーブルクロスとナプキンを用意していた。
それが特別な日になったのは、正確にはいつのことだったろうか。
詩穂が今日真っ先に向かったのは、エリュシオンとシボラの国境、フマナ平原。
詩穂にとっては当時名も知れぬ吸血鬼の少女だった、大切な人アイシャ・シュヴァーラ(あいしゃ・しゅう゛ぁーら)と初めて出会った場所だった。
それから詩穂は、ユグドラシルを遠くに見ながら空を飛び、再び空京に舞い戻ってきた。
一息つこうと街を歩いていると、とあるビルの前に出されていたイーゼルに目が留まった。
黒板には美味しそうなケーキとコーヒーの写真が貼り付けられたカフェ看板だったが、彼女の目を引いたのは『屋上テラス席』の文字だった。
テラコッタの階段を登って、わざと古めかしく作ってあるドアを開けば、
「いらっしゃいませ……」
ウェイトレスの女の子は詩穂の姿に少し驚いたように、目を軽く見開いた。
「……あの、今、空いているお席は、あちらの……」
少し緊張しているのだろう、つっかえつっかえ言う彼女に、詩穂はにっこり微笑んでみせた。
「テラス席空いてるかな? 景色のいいところがいいな」
「どうぞ、こちらです」
女の子の案内に従って、詩穂はもう一つの扉をくぐった。
そこは路面の看板に表示されていた通り、屋上のテラスを使用したカフェだった。
晴れた空の下は気持ちよく、テーブルと椅子が並べられ、幾らか入っている客が談笑しながらオムレツやサラダをつつき、コーヒーやソーダを飲んでいる。ちょうどお昼時だった。
だが、詩穂の視線は客たちでも、案内されたテーブルでも、落ち着いた装飾でもなく、その先に見えるカフェの「背景」――シャンバラ宮殿に注がれていた。
涼しくて少し湿気を含んだ風が詩穂の髪を、頬を優しくくすぐった。
それはまるで、髪を梳いてくれた時の彼女の指先のようで――、
「……アイシャちゃん」
詩穂は小さく小さく呟いた。
ウェイトレスの女の子は、詩穂の服のあちこちにさりげない視線を向けながらテーブルにコーヒーを置くと、ぺこりと一礼して去って行った。
彼女が気にしている理由は、詩穂には想像がついた。
彼女の胸元にはロイヤルガードのエンブレムがあり、金細工のブローチが輝いている。首にはロケットペンダントがかけられていた。
ロイヤルガードであることが若いウェイトレスを緊張させたのだろうし、エンブレムを含めて、アクセサリーは彼女と自分にまつわる思い出で、同時に何かしらの噂になって、それを聞いたことがある者もいるのだろう。
詩穂は今朝見てきた場所と、それらひとつひとつのアイテムに関わる出来事を思い出していった。
いや、意識的に思い出そうとしたのだ。大切な人への想いを確認するためで、もっと彼女のことを知りたかったからで、そして、そこから二人の関係に新しい何かが見えてくるかもしれないから。
(たしかにアイシャちゃんはウゲン…………ウゲン・カイラス(うげん・かいらす)によって作られた)
コーヒーに一口だけ口をつける。
思い出を、想いを自分の中から語り尽くすにはとても長い時間がかかりそうだったから。
(でもそのおかげでアイシャちゃんとフマナで出会えたし、帝国からは一時期追われる身だったけれども一緒に冒険したし、アムリアナ様の意思だけで自分の意思がないと戴冠式の後も言われていたけれども、シャンバラの危機には自らゾディアックに乗る決心をしたよね)
詩穂が今朝フマナ平原に行ったのは、思い出をつなげていくためだった。
寄る時間はなかったけれど、エリュシオン帝国の世界樹・ユグドラシルを見たかったのは、彼女がそこでアムリアナ付きのメイドをしていたからだった。
そしてここ。空京の、シャンバラ宮殿。
(ユグドラシル、フマナ、シャンバラ宮殿、アイシャちゃんの居た場所はそこしかない)
アイシャの見てきた僅かな景色を思うだけで、詩穂の胸は切なくなる。
(できれば女王の力をアムリアナ様に返還して普通の女の子として暮らしてほしいし、一緒にいたい。
ユグドラシルで給仕、シャンバラ宮殿で女王、……アイシャちゃんに広い世界を見せてあげたい、女王の力じゃなくて自分の五感で四季折々の場所場所を感じてほしい。自由に旅行とかしてみたいね)
普通の女の子だったら、もっと気軽に街に遊びに出かけただろうし、どこまでだって旅に行ける。学校に通って学生生活を満喫したり……。
それでも、アイシャが女王なのは逃れられない現実だ。
だけど……もし女王としてだけのアイシャだったら。皆が皆、アイシャを女王としてだけ見ていたら。彼女は無事では済まなかったかもしれない。
今まで契約者たちと交わした会話、育んできた絆があったからこそ、ウゲンから解放され、戻ってこれた。
(嬉しかったな、詩穂の歌で記憶を取り戻したと告げてくれたときは……)
詩穂はそっと手のひらを大事そうに合わせ、胸元の金細工のブローチに触れた。
アイシャからのクリスマスプレゼント。羽とレイピアがデザインされた細身のデザイン、中央に嵌ったルビーはアイシャの瞳と同じ色だ。
そうして彼女はまた、女王としての顔に戻った。国家神として祈りパラミタを支える孤独な戦いに赴いた。
女王としても、一人の女の子としても、アイシャは成長してきた。
同時に。詩穂のアイシャへの想いも、より強くなっていった。
(ううん、昔に比べたら詩穂だってアイシャちゃんと一緒に成長してきた。これからもアイシャちゃんの隣の相応しいように再会したときに成長していたいし、その後もずっと一緒にいたい、そう想える初めての人………)
でも。
想いがより強くなるほど。同時に、詩穂の心は弱くなってしまったようだった。
詩穂はブローチから手を放し、飾り気のないロケットに手を添える。
飾り気のないロケットだったが、大事な宝物だ。“慈愛”と名付けたそれには、アイシャの写真が入っている。
そして詩穂はアイシャに、“悠久”と名付けたロケットに自身の写真を入れて贈った。
詩穂がこのロケットを開くたびに、指で触れるたびに思い出すように、同じように、アイシャも詩穂のことを想ってくれているだろうか。
……詩穂の指が表面の模様をなぞった。
彼女の顔は、ロケットを開かなくても鮮明に思い出せるのに。
「……会いたい、よぉ……」
それは絞り出されるような小さな声。
アイシャの、一人の女の子としての幸せを願うとき、同時にその側にいて笑顔を向けていて欲しいと思ってしまう。同じ机で授業を受けて、放課後にお茶して、一緒に旅行して同じ景色を見たいと、夢見てしまう。
なのに……何で……なんて遠いんだろう。宮殿はあんなにも近くにあるのに。
詩穂は、覚えている。髪を梳いた時のアイシャの青くてきれいな長い髪のさらさらした感触も、抱きしめた時のアイシャの体温も、柔らかな体も。瞳の赤さも。
覚えているけれど、はっきりと思い出せば思い出すほど、決して触れることができないことを思い知らされて……。
詩穂は、ブローチに触れた。
アイシャと同じ色のルビーが、初夏の光に照らされて控えめな光を放っていた。
(大丈夫、アイシャちゃんはこのブローチ……“アイシャの騎士”を詩穂に渡すときに、祈りの間に入る決心を告げてくれたし、出てきたときには会ってくれる約束をしてくれた。そのことだけで強くなれる。詩穂もそれに応えなくっちゃ)
詩穂は手で目尻を拭うと、民を見守るようにそびえ立つシャンバラ宮殿を眺めた。
(再会したときに最初にどんな言葉をかけてあげようかな……)
詩穂にとって、アイシャにとって特別な日。でも、今日も彼女は宮殿の中で一人、いつものように女王としての務めを果たしていることだろう。
――6月6日。
今日はアイシャの誕生日だ。