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リアクション
第3章 アプサラスの夜 2
水上ステージのライブに向かう途中、下川 忍(しもかわ・しのぶ)はパートナーの赤坂 優衣(あかさか・ゆい)にこんな話を持ちかけられた。
「ねえ、忍。『約束はもう良い』って言った時があるじゃない?」
忍は優衣の顔を見て、その時のことを思いだそうとした。
あれはいつの時だったか。そんな話もしたんだったな。
「ああ。確かに、あの時、僕は『恋人も自分自身もお互いのために同性愛者だと思われたくない』と言ったな」
「ええ、そのことで実は言いたいことがあるの」
優衣は忍の顔を見ていなかった。ビーチにまで届くステージの大きな歓声がある。優衣は遠くに瞬く明かりを見ていた。
「同性愛者がどうのって、パラミタでは当たり前の事よ。だからって、あなたが気に病む必要はない」
「知ってる。だけど僕は、男同士なんてもってのほかだと思っている」
忍はそっけなく答えた。するとすかさず、優衣は言った。
「その考えはもう古いのよ」
そのときの優衣の顔は忍へ向いていた。
「もし、あなたの恋人が性別を隠すっていうなら……」
「確かに僕も考えが極端すぎた。恋人が男装している以上は、たとえ周りが同性と思おうと異性だというのは変わらない」
「まさかのそっち?」
優衣はくすっと笑った。
「理屈は合ってるけど、そんなのでいいの?」
「いいんだ。僕は同性愛者と思われても恋人を守る覚悟があるから」
忍の目には迷いはなかった。目には激しく閃光を放つような力強さがあった。
優衣は肩をすくめて、そっと言った。
「……ったく、相変わらずね」
ステージの歓声はよりいっそう大きくなった。
●
水上ステージのパフォーマンスが終わりに近づくころ、アインは頃合いを見て言った。
「よし、朱里。そろそろだ」
「ええ」
レストラン『アプサラス』と水上ステージは一つに連なった大きな作品だった。
ドレススカートの衣装に着替えた朱里は熾天使の翼を背中に生やすと、レストランからステージへと降り立った。紅月と観月季も一緒だった。彼女たちはすでに舞台衣装に着替えていて、観月季はグランドピアノを、紅月は胡弓を手にした。
観客は息を呑んでいる。ステージのパフォーマンスは最後の時を迎えていて、誰もが朱里の歌を待った。
朱里は顔をあげてレストランからこちらを見つめているアインを見た。
(アイン……あなたのために、歌うわ……)
もちろんそれは、ステージを観に来た全ての者たちへ向けたものでもあったが、心のどこかで朱里はただ一人のために歌うとすれば、それは自分の恋人だと思った。
清き水よ 白き光よ
歌が始まる。
胡弓を奏でる紅月は、朱里の声に合わせてコーラスも担当した。
この星の子らを護りたまへ
我は願ひ 謳います
観客は静まり返っていた。彼女の声を聞かないためではない。ただ、心と耳と目を奪われていた。
やがて歌が終わったとき、静寂はまだ続いていたが、朱里が頭をさげると、それは一瞬にして歓声と喝采に変わった。
花火が打ち上がり、ヴァイシャリー湖を照らしあげた。
アプサラスの夜が、終わる。